私のからだが教えてくれたこと

日々の気付きや暮らしの手仕事のこと

優しい気持ちで生きる

note記事(2021/5/25)より転載

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自然の中に身を置いていると落ち着く。

いろいろと理由はあると思うけど、私が思うに、自然には悪意が無いこと、そして、あるがままに素直に生きている自然の姿を見ると、人間も自然の一部なんだからそうであって良いんだよ、と優しく諭されているような気がするからじゃないかな、と思う。

自然は、ただ生きるために生きている。

季節の巡りに合わせて、置かれた状況で一所懸命生を全うしようとしている。

日当たりが悪ければ悪いなりに、エサが少なければ少ないなりに。

そこに歪んだ意図は無い。

余計な意図をもって生きているのは人間だけだ。

 

皮肉なことだけど、体がおかしくなってからは、元気だった頃よりもずっと、毎日を「生きている」という実感がある。

私が出来ることは本当に少ないけど、その少しの事を精一杯できる範囲でやっている。

毎晩寝る前に(ほとんど眠れないけど)、今日出来たことを数えて自分を褒める。

そんな毎日の中、庭に出て草木や虫を眺めていると、同じように一所懸命生きているのだなぁと思えて、生き物達を愛おしく感じる。

いつの間にか、虫等に対して無為な殺生をしなくなった。

自分と同じ仲間みたいな存在でしかも向こうは私に何も危害を加えてないのに、と思うと理由もなく命を奪うことをためらう。

だから、なるべく外に追いやったりするだけにしている。(でも、蚊は叩いてしまう。中村天風さんみたいに「血ぐらい吸わせておけ」なんて境地にはまだ至りそうにない…やっぱり痒いのは嫌だ)

人間を見る目も変わった。

どの人も生きてきた分だけの人生いろいろがあるはずだ。

それはその人だけのもので、他人とは比べられない。

どんなに幸せそうに見える人も実は苦しみを抱えながら笑顔でいるのかもしれないし、また凶悪な犯罪者とされている人だって、思いやりや優しさが1ミリもないなんてことは言えない。皆一人一人それぞれの事情の中で、一所懸命生きている。

そう思うと、実は人は皆そんなに変わらないんじゃないか?と思うし、とても優しい気持ちで人を見られるようになった。(と言っても、今私の周りに居るのは優しい人ばかりなのでそう思えるだけかもしれない。もし自分に悪意を向けてくる人が現れた時に、同じような気持ちでその人を見られるかは、まだ自信がない。それでも、前よりは冷静でいられる気がする。)

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人を優しい目で見られるようになったなぁと感じると同時に、そういえば、自分に対しても優しい目で見られるようになっていることにも気づく。

長い病の苦しみの中で私がまず取り組んだのは、自分自身をまるごと認め、優しい声をかけることだった。

外側の世界が優しいものに変わってきた(=そう見えてきた)のは、徐々に私の内側が変わってきたからだと思う。

なぜかというと、自分自身に厳しくしたり何かと善悪のジャッジをしていた時は、他人にも、たとえそれを態度には現さなくても、同じようにしていたからだ。

うわべで優しく振る舞っていても、心の中では優しさとはかけ離れた思いが有った。

あぁ、自分の内側と外側は繋がっているんだな、世間でよく言われていることは本当だったんだな、と改めて思うのだった。