私のからだが教えてくれたこと

日々の気付きや暮らしの手仕事のこと

内なる優生思想は結局自らを苦しめる

note記事(2021/8/17)より転載

*****

最近書きたいことも無かったのだけど、先日、某メンタリストがYouTubeで発言した内容が波紋を呼んでいるようで、それについて思ったことを記してみる。

なんでかと言うと、多分彼と同じ考えを抱いている人はたくさん居ると思うからだ。

かく言う私も、言葉には出さなかったけれど、昔はそれに近い考えを持っていた。

 

彼の発言は社会的弱者に対する差別で断じて許せない、命の価値は平等だ、という意見は当然のこととして、私が特に思うのは、そう言った優生思想に基づいた考えは、結局のところ自分を追い詰め、苦しめることになりえるので、自分のためにもその考えは手放した方が幸せだよ、と言うことだ。

私は身をもってその事を知った。

私も体調を崩す前までは、普通に働き不自由のない生活をしてきたし、思えば子供の頃から比較的恵まれた環境で過ごしてきて(今も療養に専念させて貰っているのでめちゃくちゃ恵まれていると思う。感謝。)、ホームレスの人や障害を持った人に対しては、「不自由が多くて可愛そう」だとか「自分はそうはなりたくないなぁ」、そう言った気持ちが正直、有った。

こう書いてて嫌な気持ちになるのだけど、実際、表面では善人ぶっていても、心の奥では逆のことを思っていたのだ。

そんな自分が嫌で、本心に気付かないふりをしていた。

 

体調を崩す少し前から、ひたすら効率や利益を追求し続ける会社での仕事に空しさを感じていたので転職を考えていた。

その中で、ホームレスの人の社会復帰を支援する団体の活動に参加したことがある。

ホームレスの人達の人生エピソードを伺ったり、彼らを取り巻く環境を知ることで、誰でもホームレスになる可能性はあるんだ、と学んだ。

突然の病気や事故、その他予期しない出来事によって、人生の歯車は簡単に狂ってしまう。

そして、いつ起こってもおかしくないその事を不安に思うと同時に、じゃあ「何が有っても安心して生きていける、大丈夫だと思える 社会」を作る手伝いをしたいと思った。

それは人のためであり、自分のためでもある。

その後ほどなくして、私は体が動かなくなり、仕事を失ってしまうことになる。

一気に社会的弱者になった私は、皆が普通にできていることが出来ないもどかしさや、無価値感にとても苦しんだ。

誰かの世話にならなければ(=迷惑をかけなければ)生きていけないこと(人は一人では生きていけないからそれは当たり前なんだけど)、社会から必要とされていないこと。

自分がひっそりと抱えていた優生思想から生み出された考えに毎日押し潰されそうだった。

でも、実はずっと前から苦しかった。

この世の中で生きていくためには、もっと頑張らなければ、賢くなければ、そしてもっと自分を良く見せなければ、そうでなければ誰からも必要とされなくなる、と思いながら生きてきたから。

その後、何度も自分自身と対話を続けていった結果、ようやくこのままの私で良いと思えるようになった。

今私が持っている自分を縛り付ける考えは私だけの真実で、それは変えられる。

見渡せば優しい人達がたくさんいる。

生きているのは生かされているからで、それだけですごいことだしありがたいこと。

毎日を後悔のないように目一杯生きる、出来ることを出来る範囲でする、それだけで良いんだと。

弱者を見下したり差別する人達の多くは、根底に恐れや不安が有るのだと思う。

自分はそうなりたくない、そうなったらどうなってしまうのだろう、と。

そもそもマイナスの感情は全て恐れや不安から発していると思うので、一人一人が優しい気持ちを持てる社会になるためには、それぞれの心の中に絶対的な安心感があることが必要だと思う。

人が心から安心して自分は大丈夫だと思える時、伸び伸びとその人らしく幸せに生きられるだろうし、他者を傷つけたりすることも無いんじゃないか。

今のところ私の人生のテーマはこの「絶対的な安心感」。

それをどうやったら得られるのか、模索中だ。